書きとめておきたいこと

イタグレとはまったく関係の無い話です。
昨日、終戦記念日。TVではいろいろな特番が組まれていて、
信じられないような戦争体験者の話が、あちこちで語られていました。
そういえば、私の両親も戦争体験者。
子どもの頃、母からは疎開した際の話など散々聞かされたものでした。

そう、母は当時小学校の高学年。戦災から逃れるために田舎の親戚を頼っての疎開。
畑仕事や、家に帰る時の満員列車の話・・・食べる物が無くて苦労した話、空襲警報の話など。
そんなことが中心でした。

方や、父は、当時熊本高専(現熊本大学)電気科在学中。
理系男子は出兵せず、軍事関連施設で武器を開発?作っていたとか。
父はあまり多くを語りませんでした。
きっと、母よりも実際の「戦争」という時代の辛さ、悔しさ、苦しさ、悲しさをたくさん見聞きしていたからだと今更思います。

人は、その記憶が辛く苦しい、悲惨なものだと、人に語ることはできないんです。
思い出したくないから・・・思い出すと恐怖が押し寄せてくるから。
だから、今頃になって、たくさんの戦争体験者が、色々なこと語り出したのかもしれません。

そんな父は、私が長崎に転勤になる時、はじめて、当時のこと話しました。
かれこれ10年くらい前ことです。
長崎のどこに住むねん。と聞かれ、長崎大学の裏と答えると
長大が「三菱重工 長崎兵器工場」の跡地に建てられたことを知っていた父は
自分は熊本大学の学生の頃、そこで兵器を作っていたとこと明かしたのです。

まだ、造船所の島に渡る船は、長崎港から出てるのか?とか
もう、今は道路が島を繋いでるから、渡し舟は無いよ。とか。
めったに話さない父と、まともな会話をした数少ない記憶です。

長崎大学は原爆中心地のすぐ隣。
きっと、兵器工場や造船工場、大きな病院があったので、長崎が狙われたのでしょう。

まさしく、原爆が落ちた時、兵器工場で働いたいたはずの父が、何故被爆しなかったのか?
父は参勤交代制で兵器工場で働いていたため、ちょうど交代で熊本に戻った時。
熊本の校舎で、長崎方向からわきあがるキノコ雲を見たそうです。

電気科、科学者の教授も一緒にいて
教授が「よく見ておけ、あれが原子爆弾だ。日本は負けた。」と泣きながらもらしたそうで・・・
父も悔しくて、他の学生たちと声を上げて泣いたと。
父は、「日本も原爆を作る技術はあったのに、お金がなくて作れなかった。だから負けたんや。と
その一瞬、何十年も前に遡ったかのように、その時も悔しそうにつぶやくように話ていました。
父から戦争の話を聞いたのは、たぶん、その時が最初で最期でした。
その時の父は、軍人になれず、戦うことができず終戦を迎えることになった自分を恥じるような印象でもありました。

母もそんな話は聞いたこと無いと言っていたので
たぶん、ずっと心の中に秘めていた、衝撃的な記憶だったのだと思います。

私は長崎に住んでいたので、長崎に今もあちこちに残る、原爆の記憶を見ました。
長崎の人達は、忘れたかもように日々過ごしていますが、絶対に忘れることができない史実です。
原爆資料館もリニューアルで随分とおしゃれに高性能になり
私が高校生の時修学旅行で訪れた際の、悲惨な写真や記事の羅列ではなく
3Dやレーザー映像、ジオラマで、まるで夢の国の出来事のように今は閲覧できるようになっています。
だから、他県からやってくる金髪ミニスカ制服の修学旅行の女子学生たちは
原爆資料館で、キャッキャキャッキャと笑ながら、大して資料も見ずに通りすぎる子も多く、イラっとしました。
方や、地元の小学生達は親は祖父母たちから、原爆の恐ろしさの話を聞いているのか
資料館の中で、騒いでいる子は一人もいません、皆、ちゃんとメモを片手に熱心に見ています。
人を介して語り継がれることがどれだけ大切かを実感しました。

私達戦争を知らない世代は、ますます、子ども達にそういった大切なこと伝えることができなくなります。
原爆資料館で、キャーキャー騒いでいる子が親になる時代もやってきています。

平和ってなんだろう。
戦争をしないということって実は凄く難しいことなのかも。とか。
夏のこの時期になると、毎年、深く思います。

自分自身、既にシニア世代になりつつあって、こういう話を誰かにすることも、なくなっているので
忘れる前に、どこかに書きとめておこうと思って、ここに書きました。

今も、足元には、イタグレ2姫が気持ちよそうに昼寝しています。
平和です。この平穏な毎日に心から感謝しています。

そして、一人娘は、父が終戦を向かえた頃と同じ年頃になっていることに気がつきました。
学校は違いますが同じ高専生。
父が生きていたら、きっと、もっとたくさんの話を娘にしてくれたんだろうな。と。
お盆でもあり終戦でもあり・・・色々な想いが漂います。

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